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| 牛込見附門跡 神楽坂通り [地図1] |
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牛込見附門跡 |

神楽坂通り |
旧江戸城の牛込御門を出て外堀通りに出たところが神楽坂下。そこから正面の「神楽坂通り」を上り、毘沙門天善国寺を過ぎ、大久保通りを越えて地下鉄神楽坂駅あたりまでの一帯が、いわゆる「神楽坂」と呼ばれる界隈。
坂の名前の由来については、「若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから」など諸説ある。 |
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| 毘沙門天(善国寺) [地図2] |
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江戸中期の寛政4(1792)年に移転してきた日蓮宗池上本門寺の末寺で、神楽坂の中心として親しまれて続けている。
江戸時代から後々まで、境内にある毘沙門天(寅の日)と出世稲荷(午の日)の2つの縁日で賑わい、年に4回寅の日に本尊の毘沙門天像(区文化財)が開帳(一般公開)される。新宿七福神のひとつ。 |
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| 大手門通り [地図3] |
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毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の通りは、中世に築かれた牛込城の大手門(正門)に通じていた。明治時代には「松が枝」(現在はマンションになっている)という神楽坂で一番大きな料亭ができ、昭和時代には大物政治家の出入りも頻繁であった。
この通りの枝道の突き当たりに見える擁壁は牛込城本丸の土塁の跡であり、今でも湧き水がしみ出している。 |
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| 神楽坂若宮八幡宮 [地図4] |
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| 源頼朝が東北の藤原氏と義経討伐の折この地で下馬し祈願したとされ、奥州平定後、この地に鎌倉の鶴岡八幡宮の御神体を勧請した。仁徳天皇、応神天皇を祭神とする由緒ある社で、かつては周辺の高台すべてを境内としていた。 |
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| 小栗横丁 [地図5] |
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| 小栗という姓の武家屋敷が、この通りの両端にあったことから小栗横丁と呼ばれた。かつては片側(北側)に幅一尺ほどの小川が流れており、この地に湧水が豊かであったことの証である。通りの中程に銭湯・熱海湯があることから「熱海湯通り」とも呼ばれる。 |
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| 見番(東京神楽坂組合) [地図6] |
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| 花柳界(花街)とは料亭があり芸者さんが行き来する地区や社会を指し、見番は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことで、正式名称は「東京神楽坂組合」。神楽坂花柳界の最盛期には700人近い芸者衆がいたが、現在は30名ほど。なお今日、東京には代表的な花柳界として神楽坂の他に、浅草、新橋、赤坂、向島、芳町がある。 |
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| 芸者新道 [地図7] |
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| 明治時代にできた道で、以前は「ロクハチ」(宴席の始まる夜の6時と8時のこと)ともなると、お座敷に出る御姐さん達が一刻を争って近道に利用した。この通りの東端は傾斜が急になっているが、これがかつての神楽坂通りとほぼ同じ傾斜。 |
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| 軽子坂 [地図8] |
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| 神楽坂通りの北東側を並行する坂。鎌倉時代に武蔵国府中と下総国国府台の両国府をむすぶ道として整備されたもので、神楽坂通りより古い歴史を有する。江戸時代には、神楽河岸で荷揚げされた米などの荷を軽籠(かるこ)を背負って運搬する人夫達(軽子)がこの地に多く住み往き交っていた。坂の名はこのことに由来する。 |
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| 三年坂 [地図10] |
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| 本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。名の由来は、寺や墓地に囲まれた静寂な場所でつまずくと三年のうちに死ぬ、死なないためには三度土を舐めよと言われた俗信による。 |
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| 本多横丁 |
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| 名称はこの横丁の東側にあった徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側には寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。 |
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| かくれんぼ横丁 [地図9] |
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| 最も「神楽坂らしい」雰囲気を保っている路地のひとつ。石畳や黒塀、さりげないけれど趣向を凝らした建築などを味わいながらのまち歩きは、神楽坂ならではのもの。 |
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| 兵庫横丁 [地図11] |
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| これも神楽坂の代表的な石畳の路地で、元は3尺程度の幅であった。料亭のほか、著名作家たちが逗留して執筆活動を行うことから、「ホン書き旅館」として知られる「和可菜」などがある。 |
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| 寺内公園(行元寺跡) [地図12] |
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| 現在、超高層マンションが建ち寺内公園がある一帯は、明治40年の土地区画整理で西五反田へ移転した行元寺という広大な寺であった。江戸後期には寺の境内を町屋として年季貸しするようになり、家が立ち並ぶにつれて迷路のような路地ができた。また、境内の一部が遊興の場となり、そこから神楽坂花柳界が発祥した。 |
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| 地蔵坂(わらだな横丁) [地図13] |
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| 毘沙門天を少々神楽坂上方面にいったところから光照寺方面に上る坂。光照寺の子安地蔵が信仰を集めた。また境内に住む狸が地蔵に化けて、夜な夜な坂を通る人を脅かしたということから命名された。また、藁を商う店が多かったことから、その一帯は藁店(わらだな)横丁とも呼ばれる。 |
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| 光照寺(牛込城跡) [地図14] |
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| 旧牛込城本丸跡地にあり、牛込氏が家光によって移封された後、1645年に神田から移転した。出羽国(秋田・山形地方)松山藩主酒井家の歴代藩主一族の墓、神田松永町旅籠屋紀伊国屋利八が、その旅籠に逗留中に倒れ亡くなった人々を弔った諸国旅人供養碑(1825年)などがある。 |
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